2018年2月15日
伝統を考える…。
こんにちは。今日は朝から雨…。天気予報では朝方でやむように言っていましたが、どうやら終日弱い雨が降るような感じがします。15日ということで、神詣りのご縁日。もうそろそろやんでほしいものです。
さて、社務所で何気なくスマートホンでフェイスブックを見ていましたら、私の師範が若い能楽師さんの記事をシェアしていました。興味深かったので、大変恐縮ですがちょっと転載させていただきます。
『いま日本の伝統工芸界には、後継者の無い七、八十代の職人が一人で守る分野、技術が山ほどある。
それらは互いに材料や技術を提供し合って成り立っているから、あと数年で伝統工芸の世界は半壊し、数十年後には跡地となる定めにあるのかもしれない。
伝統とは衣食住とそれに関わる精神生活の中に、先人たちが世代を超えて咲かせてきた美の秘密を、我々が受け取ったものであり、伝統の価値はその発祥の古さにあるのではなく、発祥から今日までアップデートされてきた、履歴の厚みにこそある。
つまり師匠の言葉を借りるなら「伝統ほど進化をしている物は無い」。
そして日本が神代から系譜を引く天皇をいただくのは、上から下まで持ち場持ち場に受け継がれた伝統を結集し、この国自体が一つの巨大な伝統たろうと考えてきたからだった。
その日本の根幹を成し枝葉と繁り花と咲く、この国の存在意義でもある伝統が、いま散り急ぐ桜のように失われ行く時代にさしかかっている。
昨日確かに枝えだにあったそれが今日には幻となる事態にいたっても、この国の実務を司る人々は目先の事ばかり追って、この喪失を感じ取らぬ残念にあるが、政治家が国民の通信簿であるならば、自国の成り立ちに最も疎く、世界的に見ても極めて価値の高い体系を散るに任せているのは、我々自身である。
そんな事は、と思われるかもしれないが、一例を挙げれば、衣食住の一角を成す着物を買わず着ないということは、「着物文化を破壊する」選択をしているということだ。
千年、二千年、数千年、先人達が心を砕いてきた美意識の蓄積を、我々はむざむざ散り失うにまかせている。
育むには悠久を費やし、絶えれば刹那であり、絶対に取り返しがつかないのが伝統というものだ。
無知で非力なれども伝統を守る小さな砦たろうと、僕は着物を着て生活し、能楽師をしている。
これが僕の考える国防です。』
※以上、川口晃平さまのFBの記事を転載。
私も神職の一人として、我が国の伝統文化の担い手であるが、神職の道具や装束も多くの伝統工芸の人たちによって支えられています。しかし段々とその担い手も少なくなっているのが現状。私も小さな装束店と取引していますが、いろいろなアイデアを出しながら、注文をしています。今現在彼と進めているのが、朱印袋。狩衣や格衣などの生地は参拝者にとって新鮮なようです。このような発想もまた先ほど川口さまが書かれた、「伝統ほど進化していくものは無い」ということにつながっていくのだろうか?と思いますが、いかがでしょうか?