御由緒
神護景雲3年(769年)、流罪の道中、僧・道鏡の追手により足の筋を切られ、負傷した和気清麻呂公は、数百頭の猪に導かれ宇佐八幡宮へと辿り着き、そこで神のお告げ通り、竹和山(現・足立山)の麓にある霊泉に浸かると足の傷が治りました。その事に感謝し、清麻呂公の四男・磐梨妙運をこの地に送り、宝亀元年(770年)11月15日に足立山妙見宮を創建。その後宝亀3年(772年)に下宮・足立山平癒寺を建立、弘化8年(817年)には三男・真綱が父・清麻呂公と祖先の神霊を合わせ祀ったといわれています。
御祭神
造化三神
天之御中主神
高皇産霊神
神皇産霊神
鐸石別命
和気清麻呂命
成り立ち
神護景雲3年 (769年) | 称徳天皇の神護景雲3年(769年)太政大臣法王弓削氏道鏡が皇位につくのがふさわしいというお告げがあった。それに疑問をもった朝廷は和気清麻呂公(以下、公)に勅命を出し、神のお告げが本当であるかを確かめるため、宇佐神宮へ行くよう命じた。 その結果、「道鏡は皇位にふさわしくない」というお告げがあった。朝廷に報告すると、それに怒った道鏡は公を鹿児島に追放した。 鹿児島へ向かう途中、豊前の楉田村(しもとだむら)に着いた公は、道鏡の追手から足の筋を切られるが数百頭のいのししが公を助け、宇佐神宮まで送り届けた。再度宇佐神宮へお詣りした公はお告げを受ける。 そのお告げに従い、公は規矩郡竹和山(現在の足立山)の麓にある石川村(現在の小倉南区湯川)にあった霊泉につかると、たちまち足の傷が治った。 公は足立山に登り、造化神北辰尊星妙見に皇室の安泰と反逆者がいなくなることを祈った。すると造化神北辰尊星妙見が現れ「汝の願い聞きいる」というお告げを受けた。 |
宝亀元年 (770年) | 光仁天皇が即位し皇室は安泰となった。また、道鏡は下野国に流され、公は平城京に呼び戻された。公は四男の磐梨為綱(出家して妙運)を造化神が降臨した足立山に送り、足立山妙見宮を創建した。 |
宝亀3年 (772年) | 国司 大伴百世の助力により葛原 蜂が坂の足立に下宮 足立山平癒寺を建立した。 |
弘化8年 (817年) | 公の三男、参議 和気真綱卿が宇佐へ勅使の帰り、下宮に父である清麻呂公と祖先の神霊(鐸石別命)を祀った。 |
仁寿3年 (853年) | 藤原良房が虚空蔵、釈迦、薬師、阿弥陀の仏像四体を妙見宮へ寄進した。その他、大日、不休息の仏像二体が、現在隣接する薬師堂にある。 |
天暦元年 (947年) | 村上天皇の勅願所となった。 |
承安4年 (1174年)~ 天文21年 (1552年) | 古鏡が埋蔵される。 |
永正17年 (1520年)頃 | 後柏原天皇から「うら菊」の紋を授かる。 この紋章は和気氏の流れである和気明親が後柏原天皇から和気氏の家紋としていただいたもの。したがって和気氏と同じ流れの妙見宮の社家が、これを神社の紋章として使用しており、全国神社の紋章としては妙見宮だけのものである。 |
慶長6年 (1601年) | 細川忠興が眼病平癒を祈願し、この成就により下宮を現在の足立山妙見宮がある場所に移して鎮祭した。その際、日向から取り寄せた松を植樹している。 |
寛政7年 (1795年) | 小倉藩五代藩主 小笠原忠苗が上宮 足立山妙見宮に参拝した際、家臣がお茶の用意にと同宮の後ろを掘ったところ古鏡が出土した。 出土した古鏡は九面あり、湖州云々の銘のある古鏡が六面、流水飛鳥や梅鳥のある古鏡が三面。現在、古鏡は市立自然史歴史博物館(いのちのたび博物館)に寄託されている。 |
文政10年 (1827年) | 妙見宮の桜神苑に秋山光彪の歌塚が建設され、現存している。昭和59年(1984年)に北九州市文化財に指定。 |
明治3年 (1870年)頃 | 明治新政府による神仏判然令(神仏分離)に伴い、上宮 足立山妙見宮並びに下宮 足立山平癒寺を御祖(みおや)神社と改称する。 |
昭和28年 (1953年) | 妙見宮境内に津田三代吉、米谷勘吉両名の敬神的協力によって昭和4年(1929年)に建設された「いのししに乗る和気清麻呂公の銅像」は、昭和19年(1944年)の銅鉄回収を受け、除去されそのままとなっていたが、再び米谷勘吉、津田金治、山田一次らによって石像として改造され現在に至っている。 |